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コラム(アーカイブ)
方言を自ら捨てるという愚行について
2014.02.21(金曜日)    有留修(ありどめ おさむ)
しばらく前の本コラムでよそ者であっても地域の言葉、方言を学ぶことの大切さについて書きました。今回もまた、そのテーマを取り上げながら、違う角度から論じてみようと思います。

初めに、昨年12月に行われた、ある講演会の話からです。町のPTAの研修会にスピーカーとして招待されたぼくは、会場に集まったPTA関係者や学校の先生たちに方言を守ること、それを忘れないことの大切さを訴えました。

理由は次のとおりです。

久しぶりの田舎で気づいた「ある変化」

ぼくがほぼ7年ぶりに海外から帰国し、二十数年ぶりに生まれ育った町に復帰して驚いたことのひとつが、スーパーなど人の集まる場所で標準語の聞こえる頻度が昔に比べると格段に上がっていることです。少なくともぼくが高校を卒業して、東京の大学に進学する頃までは、街中で標準語が聞こえてくるなんて、まれのまれでした。

ところが今はそうではありません。どこのスーパーやドラッグストアに行っても標準語が普通に聞こえてきます。また、何年か前に内之浦で開催されたインターネットを使った小学生同士の交流会――地元の小学生と県外の学校の生徒がお互いの学校を紹介するというイベント――では、地元の小学生の多くが標準語をしゃべることに衝撃を受けました。

「なぜこの子たちは標準語をしゃべるんですか。よその学校の子供たちと話すので標準語を使っているのですか」――会場に来ていた地元の人にたずねてみると、意外な答えが返ってきました。

「いや、あの子たちは普段から標準語を使っているみたいですよ」

でも、なぜ。

ぼくの頭の中は疑問符だらけになりました。

地元の小学生はなぜ地元の言葉を使わないのだろうか。親がよその土地から移住してきていて、家庭では標準語が使われているからなのか。あるいは、学校で標準語を使うことが奨励されているからなのか。はたまた、テレビの見すぎで標準語が自然と身についてしゃべっているのか――正確なところはよくわかりませんが、とにかくぼくらが子供の時にはありえなかった現実に少なからず戸惑ってしまったのでした。

言語の相対化

英語をはじめとして複数の外国語と格闘した経験を持つぼくのような人間からすると、どんな理由があろうとも、地方にいながら地域の言葉を「わざわざ」捨てるということは、なんとももったいないといわざるを得ません。というか、愚行であるとさえもいえます。

生まれながらにして、鹿児島弁と標準日本語という二つの言語体系の中で生まれ育ったぼくにとって、その事実は「言語を相対化できる」という非常に重要な能力を自然に身につけるうえで、きわめて有益な環境だったといえます。

言語の相対化――聞き慣れない表現ですよね。他の人が使っているのかどうか、それはわかりませんが、自分ではこの表現がいちばんスッキリします。

20140221_satsukisalon.jpg
こちらは現在取り組んでいる地域住民向けのiPad講座。
ここではもちろんほぼ純粋な地元言葉が飛び交います。

つまり、こういうことです。

鹿児島弁と標準語の二つの言語世界をほとんど自由に行き来できるぼくのような人間にとって、そこに英語や中国語、仏語といった外国語が加わったとしても、外国語だからといって、同じ言語である以上、何ら本質的には変わらないということです。特別扱いをしなくてもいい、ともいえます。つまり、鹿児島弁と標準語、英語、中国語、仏語が同列に並んでいるということです。

言語とはあくまでも表現のための道具であって、言葉を学ぶということは、その道具が増えるということだけの話です。その意味で、二つの道具からスタートできる田舎人は、それだけでも外国語を学ぶうえで有利な立場にあるといえます。もちろん、そう意識しないと、その有利さには気づかないわけですが......

そうした有利性を持つ地方の人に比べて、これが日本の中心、東京で生まれ育った人では事情が異なります。彼らは基本的にモノリンガル、ひとつの言語しか知らないわけであり、いわば標準日本語(あるいは東京弁)が絶対的な存在といえます。であればこそ、英語や中国語といった外国語が入り込むと、身構えてしまい、それが災いして外国語の習得が、少なくとも意識のうえでは、難しくなってしまうのではないかと思うのです。言語の相対化ができないからです。

もちろん、これはぼく自身がこれまでの体験に基づいて勝手につくり上げた推論であって、なんらの科学的根拠があるわけではありません。でも田舎に生まれ育ち、鹿児島弁という日本の方言の中でも特に個性の強い、まるで外国語のような言語を母国語として生まれ、と同時にテレビやラジオ、あるいは学校教育の現場で標準日本語に触れて育ってこられたがゆえに、ぼく自身は初めから外国語に対して身構えるというか、それに対して恐怖心を抱くということはほとんどなかったように思います。

もちろん鹿児島に生まれ育った人間がすべてそのように思うわけではないでしょう。ぼくのような人間はあくまでも少数派でしょう。

方言とは田舎人に与えられた天賦の才能?!

大学時代には、こういうことがありました。

キャンパスに田舎の友人が来ていて、その彼と大学の同級生の3人で木陰のベンチに座って話をしていました。真ん中に座っていたぼくは、右側にいた田舎の友人には鹿児島弁で語りかけ、左側にいた大学の同級生には標準語で話しかけていました。右を向けば鹿児島弁、左を向けば標準語です。

それを一瞬にして、端から見れば器用に使い分けていたのです。それは後になって、英語がほぼストレスなく話せるようになって、通訳をする時なども同じです。例えば、アメリカ人に対しては英語で話し、日本人に対しては日本語で話すわけですが、その切り替えを一瞬のうちに行うのです。

言語の相対化ができるぼくにとって、絶対的な言語はないということです。もちろん、習熟度からして日本語、それも母国語である鹿児島弁がいちばんしっくりきますが、今アメリカに渡り、そこで暮らすことになったとしても、言語的にはほぼ何の問題もなくできることでしょう。2度の留学を通じて実際にそれをやってきました。

その能力・才能は、田舎に生まれ育った人にとっては天賦のものといえるのかもしれません。いわば自分たちのDNAに自然と刻み込まれたものです。それを体験的に知っているからこそ、そうした能力に気づかず、大切な方言を捨てるという愚行をなんとしても防ぎたいのです。

言葉を守ることは文化を守ること

さらに、もう一言付け加えるならば、方言を守るということは地域の文化を守ることと同じです。方言がなくなってしまえば、地域の独自の文化がなくなり、日本全体が金太郎あめのように代わりばえのしない(=没個性的でつまらない)地域だらけになってしまいます。これは文化的多様性の点から見ても重大な問題です。

さらには、ちょっと飛躍するかもしれませんが、観光を通じた地方の活性化にとっても障害となるでしょう。日本中が東京の二番煎じのようになってしまえば、地方を訪れる楽しみなり意味がかなりの程度なくなってしまうでしょう。

おそらく、鹿児島を訪れる人たちは、今もこの地に残る独自の言語や文化に触れることが、名所旧跡を見てまわることと同等か、それ以上に楽しいと思うに違いありません。もし、そうした独自の言語や文化がなくなってしまったとしたら――鹿児島を旅する魅力は半減どころか、だいぶなくなってしまうに違いありません。

地域の言語や文化を守ることが、外部から訪れた人たちを楽しませ、喜ばせる最大の要素だとぼくは思うわけであり、その意味からも、ぜひとも方言とそれが話される地域の文化を守らなければと思うのです。

地域の言語や文化が継承され、そのことによって日本の多様性が守られ、さらに今以上に活かされていけば、日本はますます面白いところとなり、海外から訪れる人たちをも喜ばせることになると信じます。

ですから、ぼくは訴えたい。

地方人よ、田舎人よ、方言という天賦の才能をわざわざ捨てるような愚行はくれぐれもしないでください、と。

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