本コーナーではコラムをはじめとして、きもつきを題材としたさまざまな読み物を用意しました。どうぞじっくり、ゆったりお楽しみください。
コラム(アーカイブ)
漱石と伝四、そしてわが学生時代
2013.03.12(火曜日)    中川十郎(なかがわ じゅうろう)
大学2年生になったとき、友人から次のような話を聞いた。
 
「東大前の本郷追分町に鹿児島奨学会(元島津奨学会)運営の寮・同学舎があり、旧薩摩藩出身の大学生を奨学の一助として安い寮費で受け入れている。ただし入寮希望者が多いので試験で選抜される」
 
当時、私が通っていた東京外国語大学は駒込に近い北区西ヶ原にあり、追分町からは電車で30分内外で行けるので、ぜひ入舎したいと試験を受けたところ、作文の一次試験に合格し、面接に臨むことになった。
 
面接官は同学舎の先輩で鹿児島出身の飯田・野村証券社長、黒川・日銀理事、中村・三愛石油重役、橋本・通産省アルコール事業局長、若手では東銀勤務の宗像氏、同学舎学生代表では芥川賞候補にもなった東大独文科学生の谷口氏などそうそうたる面々であった。
 
幸い面接試験には合格。寮には新築の鉄筋コンクリート建ての新館と古色蒼然たる旧館があった。残念ながら新館には入れず、旧館の一室を割り当てられた。悔しがっていると先輩が旧館の故事来歴を教えてくれた。
 
「この旧館にはかって鹿児島県出身で東京帝国大学文科大学英文学科学生の野村伝四なる人物も明治36~7年(1903~4年)ごろ住んでいた」
 
野村伝四は秀才の誉れ高く、夏目漱石が東大の英語講師で、『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』などを発表し、評判となっていたころに、漱石に気に入られ、漱石の弟子として夏目家への出入りを許されていた。
 
denshi_book_forweb.jpg
佐藤健著 『漱石と野村伝四と我が母と』 文芸社
 
近くの本郷駒込に住んでいた漱石は散歩の途中で、同学舎の前を通ることが多かった。漱石から伝四宛の手紙でこの古ぼけた同学舎のことを次のように述べており、漱石と同学舎の間にも関係があったことがわかる。
 
「昨日散歩のついで同学舎の前を通れり。没趣味にして且つ汚穢(おわい)極まれり建物なり。伝四先生此内に閉居して試験の下調べをなしつつあるかと思えば気の毒の至りなり」(明治37年6月17日付けの漱石から野村伝四への手紙~佐藤健著『漱石と野村伝四と我が母と』文芸社 19ページ)
 
漱石の一番弟子の野村伝四も住んでいた伝統のある旧館に住めてありがたく思えとの先輩のおぼしめしであったのだろう。
 
そういえばこの旧館の1階には図書館があり、明治時代からの重要書籍も収納されていた。これらの貴重な図書の一部も参考にしつつ私の卒論「二つの大戦間におけるイタリア独占資本主義の形成」も完成したのだから感謝すべきかもしれない。
 
伝四は明治37年暮れに、東大友人の寺田寅彦の紹介で本郷6丁目の「薮中」という下宿に引っ越している。前記の著者、佐藤健さんはその下宿屋のお孫さんである。
 
伝四は漱石宅へ出入りしていたころに漱石門下の寺田寅彦、高浜虚子、中川芳太郎、森田草平、小山内薫、小宮豊隆、鈴木三重吉などそうそうたる人物との交流も深めた。伝四は東大卒業後、奈良県立桜井高等女学校校長、県立五条中学校校長、県立奈良図書館長などを歴任、教育に一生を捧げた。
 
私は商社勤務後、大学の教員に転身。現在も教育に関与している。50年前に同じ同学舎の旧館に住んでいた私は先輩の伝四についてさらに調べを続けた。その結果、野村伝四氏は私の郷里・肝付町(旧高山町)出身で、その墓も前田にあることが判明した。なんと不思議なご縁だろう。次回帰郷時にはぜひ墓参りをしたいと思っているところだ。
 
130311denshi_tombstone.jpg
肝付町前田長能寺にある野村伝四の墓
裏面にきざまれているのは漱石が伝四が結婚した際に送った句
「日毎ふむ草芳しや二人連」
 

関連する記事

関連する記事
中学の桂教頭先生の勧めで、高山中学校から、創立2年目のラ

日本貿易振興機構(JETRO=ジェトロ)の「貿易アドバイ

21世紀は空間的にはアジアの時代となり、経済発展の時系列

英語版ポータルサイトです
ポータルサイトを運営しているNPO法人のホームページです。

きもつき情報局で撮影・制作した動画をお楽しみください。
2017.08.05
土曜日
春陽会中央病院で「わくわく病院 お仕事 探検隊」の参加者を募集しています。
詳しくはこちらへ。
2017.08.04
金曜日
高山漁協の朝どれ市の開催は、8月・9月、中止となりました。 詳しくはこちらへ。
   
※このランキングは過去1か月以内のものです                       

肝付町の地域おこし協力隊メンバー5名によるブログです。