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歴史探訪
第2回 高山編 第2部 平田靱負一族の墓
2013.10.03(木曜日)     きもつき情報局
きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第2回高山編の第2部では、江戸時代に木曽川の治水工事で大きな功績のあった薩摩藩の家老、平田靱負(ひらた ゆきえ)とその一族の墓について、肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。

なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。



平田家の墓の由来

ここ(丸岡公園墓地=米山寺墓地の一角)にあるのは宝暦治水で有名な鹿児島の平田靱負の墓です。島津家の家老で、宝暦年間(1751年~1763年)に岐阜県の木曽川の治水工事(1754年~1755年)の指揮をとったのが平田靱負でした。

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平田靱負の墓

平田公園というのが鹿児島市平之町にありますが、あそこがもともとの(平田家の)屋敷の跡です。

平田家の子孫の方が鹿児島におられたのですが、もうだれもいなくなってしまいました。墓をみる人がいなくなってしまい、子孫の方で(高山に)嫁さんに来られた人がいたので、鹿児島にあった墓をここに移されました。

江戸時代の薩摩藩の偉い人の墓が2つ高山地区にはありますが(平田靱負と調所広郷)、途中で移されたもので、もともと高山にあったものではありません。

最近、この霊域の由来という説明板を建ててもらったようです。わたしも長い間来ていなかったのですが、最近来てみましたらこれが建ててありました。平田家の先祖のことからずっと書かれています。

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由来の書かれた石碑

嫁いで来られた人の子供さん、娘さんが宇都宮家に嫁いで、その宇都宮家の子供さんが平田家を継がれたんですね。その方が平田正風という方です。おばあさんが出られたところに養子にいかれて、平田家を継がれたということです。

宝暦治水の背景

宝暦治水のことはみなさんもご存知と思いますが、今でも向こうの岐阜の方と毎年交流をしています。そして去年ですかね、岐阜から来られて、その治水工事をした堤の上に植えられている松の苗をあそこに植えました。

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岐阜から移植された松の苗

岐阜の木曽川、揖斐川(いびがわ)、長良川の3つの川が合流するところで、昔はよく洪水が出て、田んぼなんかも全部流されたりして困っていたところに堤防を築けという命令が幕府から薩摩藩にありました。

大きな藩、力のある藩に金を使わせるために幕府がそういう工事をさせているんですね。薩摩藩はもともと七十七万石の大藩ですので、あんま力をつけ過ぎて、また世の中がひっくり返るようなことがあってはいけないということで、財政力を弱めるためにそういう工事をさせているわけです。いろいろ城を築かせたり、治水工事をさせたりしてお金を使わせています。

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鹿児島市の平田公園に立つ平田靱負の銅像

木曽川の治水工事、宝暦治水には薩摩から多くのの武士が行って、犠牲者もたくさん出ています。そして出来上がった堤防に松が植えられています。(治水工事が終わったのは)宝暦5年ですから西暦で1755年ですが、今でも子どもたちが岐阜に行ったり、向こうからも来たりして交流をしています。

高山麓の有力武家

ここは広いお墓の敷地ですが、向こうに宇都宮家の正風さんの、正之というお父さんのお墓などがあります。そして車が通る道路(県道539号)がありますが、その下のちょうどガソリンスタンドから上がってきたところの途中に宇都宮家本家のお墓があります。

この宇都宮家はもともとは栃木県の人です。栃木県から仏像を背負って高山に来たといわれています。ですからお坊さんですね。そして今のAコープ高山店の裏の山のなかにお寺を建てられまして、二階堂家の屋敷に住んでおられました。あそこは大林坊(だいりんぼう)屋敷といいます。

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肝付町新富にある二階堂家住宅

宇都宮家が移ってきたのは、まだ江戸時代に入る前で、肝付家の代です。そのあと、一時、宮之城に移されて、帰ってきたときには二階堂家があそこにもう来ていましたので、五社馬場の途中にあるところが屋敷になりました。

江戸時代は薩摩半島から移って来た人が多いです。もともと肝付家の出の人は49家しかありません。全部で150家くらいあったのが全部移されて高山に残ったのは49家です。その中に宇都宮家も入っているわけですね。それ以外にも河俣(こうまた)家とかたくさんあります。

高山小学校のちょうど西側に道路向かい側に最近武家門を復元した日高家がありますが、日高家は薩摩半島から移ってきた武家です。

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日高家の修復された武家門

地頭仮屋という今の役場の機能をもった役所が高山小学校の門を入ったところにありました。江戸時代に入ってからは、主な役をしていた人たち、今の町長さんにあたるアツカイ(噯)などの役をしていた人たちが全部地頭仮屋の近くに住んでいました。

日高家もそうです。日高家は一旦内之浦に行って内之浦から高山に来て、アツカイの役をしていました。

小学校があるところは、波見にいた山下家の屋敷でした。

高山の町の主な役職をしていた人たちがあの小学校の周りの屋敷にいたわけです。 広い屋敷です。

わたしも日高家に最近よく呼ばれたりしていくんですが、そこの屋敷の広さにはびっくりしました。


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