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歴史探訪
第1回 塚崎編 第2部 土器と石棺
2013.07.17(水曜日)     きもつき情報局
きもつきの豊かな歴史について紹介する歴史探訪の第1回塚崎編の第2部では、肝付町立歴史民俗資料館に展示されている塚崎古墳群などからの出土品に関する解説をお届けします(なお、下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています)。



祭祀土器の特徴

出土した土器のなかに、丸い口のと四角い口のが一対になったものがあります。一対でそのままの形で出てきたものもありますが、ほとんどがわざと割って埋めてあります。

割れていない状態のまま置いていると持って行かれてしまいますので、使い物にならないように壊してしまうという意味もあるようです。

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割れた状態で出土した土器

また、祭祀に、お祭りに使っていますのでそれを日用に使わないようにという意味もあるようで、ほとんどが割れた状態で出てきます。

この土器は須恵器(すえき)といいますが、大阪の須恵村というところで朝鮮から渡ってきた陶工が窯で焼いたのが始まりです。古墳時代のもので、固くて薄く、壊れにくいです。

土器のなかで足がついているものがあります。今でもお供えするものの器は足がついているのと同じで、祭祀土器です。 

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足のついた祭祀用の土器

この前にある2つの土器も一対で埋めてありました。これは津曲のほうに行くところの左側の畑の中から出てきたものです。

一対というのは男と女、そういう意味があるようですが、だいたいどこでもこのように一対で、お祭りに使って埋めてあるというのが普通です。

石棺と副葬品

この石棺は上之原の宅地造成のときに出てきたものですが、長さが190センチくらいあります。そして幅は28センチくらいしかありません。成人の、大人の男の人が納まるのには窮屈な大きさです。

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上之原から出土した石棺

ですから生身の体をおさめたのではなく、一旦土葬をして骨だけになってから石棺に納め直したともいわれています。

石棺の蓋ですが、内側に赤い顔料が塗られています。これはおまじない、死者を守るためのおまじないです。古墳の内側全体が塗られているのもあります。

副葬品というのが、石棺の中や外にあります。ここには刀がありました。昔は直刀といって、まっすぐした刀がほとんどですが、これは曲がりくねっています。蛇行剣といって、蛇の形をしています。

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蛇のように曲がりくねった蛇行剣

このため、ここに埋葬されている人はひょっとしたら、おまじないをする人ではないかといわれています。

邪馬台国の卑弥呼も人を惑わしたと書いてあります。神様のお告げをみんなに告げて、占いのような形で国を治めたというのが卑弥呼です。

今は科学的に通用しませんが、昔はそういう神がかり的な人が権力を持っていたということかと思います。

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副葬品の貝輪

丸い形のものがありますが、これは貝輪といって貝でつくった腕輪です。離れてしまっていますが、もともとはつながっていました。装飾用です。首飾りなどもありました。

この時期にはガラスの玉や宝石を丸く加工して、その中に穴をあけて数珠のような形で装飾品として使っていたものもあります。

塚崎からも、地下式土壙(ちかしきどこう)の中から出土したということに(記録では)なっていますが、所在不明になっています。

古代の埋葬法

(古墳に)骨はなかなか残っていませんが、先ほどの講義で話した(最近発見された)西横間の地下式土壙では足の骨や頭蓋骨が残っていました。

黒土のところでは、酸化されてすぐ溶けてしまいますが、土壌がシラスだったりすると骨が残ります。ですから場所によっては骨がそのまま残っているところもあります。

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埋葬法について解説する海ケ倉さん(中央)

10年ほど前に西横間で発掘された石棺のなかに、3体が同じ石棺に入ったものがありました。

最初一人が亡くなって埋葬して、その後から奥さんだろうと思われる女の人の骨、子どもの骨を埋葬したと考えられる3人分の骨がそのまま出てきました。

その石棺内では足の骨が同じ向きにそろえられずに反対向きに、ひざから上の方が逆になって入っていました。それは骨だけを後から入れたという証拠だと思います。こうした(同じ墓にあとから他の人を葬る)埋葬法を追葬といいます。同じ石棺の中に3人同時に入れたわけではありません。

土器に見られる時代の変遷

一番古い土器は8000年くらい前の縄文土器です。花牟礼から出てきた縄文土器もあります。花牟礼は池の西側に7、8000年前の遺跡があります。

その次が弥生土器、2000年くらい前です。そのあとのものは1500年くらい前の古墳時代のものです。

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縄文土器の一部

形を見ますと縄文土器はきれいに縄文といわれる模様がついています。縄文という名前は紙縒(こより)のようなもの、縄のような細いひもをつくって(土器の表面に)押し付けてあり、縄の形をしているので、それから縄文と呼ばれるようになりました。こちら(南九州)では貝殻で模様をつけているものが多いです。

弥生時代になるとお米をつくるようになりました。いろいろな物を蓄えたりするのに(縄文土器のように)手間のかかるつくり方はしなくなって、表面がつるつるした土器に変わっています。

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表面のなめらかな弥生土器

脇に紐を張り付けたような形のもので、つくり方が変わってきています。生活が変わったからです。

そして今度は古墳時代になりますと祭祀、お祭りなどに使ったものがたくさん出ます。

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古墳時代の土器

このように、古墳だけを調べてもその時代の移り変わりなどいろいろなことがわかってきます。

(第3部 「塚崎の前方後円墳」に続く)


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